百合には百合らしい百合とNLらしい百合がある

2023年4月4日

百合には百合らしい百合とNLらしい百合があるのではないかと考えている。
というより、百合に限らず恋愛関係全般、それどころか人間関係全般に百合らしい関係とNLらしい関係があると考えている。この記事ではこれについて語っていく。

イントロ

百合というのは、女性同士の恋愛に対してよく使われる言葉である。百合は一大ジャンルを築いており、一口に百合といっても恋する彼女らの関係性は様々だ。

しかし私は、この様々な関係を、二つに大別できる可能性に気付いた。それが百合らしい百合と、NLらしい百合である。

この大別は百合に当てはまるだけでなく、様々な恋愛、人間関係の大別にも利用できる。よってこれを「百合らしい恋愛」、「NLらしい恋愛」と呼ぶことにする。この置き換えをするのは、百合らしい百合という言葉がわかりにくいためという理由でもある。

またこの「百合らしい」や「NLらしい」というのは、暫定的にわかりやすさのために用いている。それを用いることが適切かについては、論を進めてから再び考えたいと思う。

百合らしい恋愛とNLらしい恋愛の根本的な違い

百合らしい恋愛とNLらしい恋愛の違いの分水嶺、それは二人を結びつける動機の違いに端的に表れる。

百合らしい恋愛では、「共感」「仲間意識」「相互扶助」がその関係の端緒となる。対してNLらしい恋愛では、「役割」「序列」「使命」が関係の端緒となる。

百合らしい恋愛でも「役割」が表れることがある。しかしそれは、「盛り上げ役」など共感に資するための役割、感情的な意味での役割である。それに対してNLらしい恋愛の役割は、「料理担当」などいささか実利的で、役割を果たすことで実際の利益が出ることを期待されている場合が多い。

この「役割」の中にはいわゆるジェンダー的な役割も含まれるが、それが必ずしもメインになるわけではない。しかしそれでもなにかしらの役割分担が存在する。

以上のように、百合らしい恋愛とNLらしい恋愛には関係の端緒に違いがある。この違いによって、以降で様々な違いが表れることになる。

発展的な違い1 関係の持続性

百合らしい恋愛は共感などがその端緒に、NLらしい恋愛では役割などがその端緒になるという話をした。これによって、関係の持続の仕方が大きく異なる。

百合らしい恋愛では共感が一度結ばれれば、以後は安定的に回るケースが多い。波乱がある場合でも、内面の問題(コンプレックスなど)で起こることが多く、それを共感によって解決するという方向性になりやすい。

対してNLらしい恋愛では、様々な外的な要因、内的な成長によって役割が変化することがある。このときに関係性が大きく揺らぎ、場合によっては破局となる。また共感では解決せず、解決する場合は何か新しい役割関係に収まるという特徴がある。

発展的な違い2 デートで起こること

百合らしい恋愛とNLらしい恋愛は、デートの質が異なる。百合らしい恋愛は共感によって両者が楽しいことがわかりきっているデートが成立するが、NLではそうとは限らない。

これはNLの方がデートの質が劣っているという話ではなく、むしろこの「両者が楽しいかはわからない」状況こそが、NLのテーマである。

NLではそれぞれが異なる役割を持っていることがその関係の端緒であるため、見えている景色が異なるという暗黙の了解がある。

互いが互いの真の理解者にはなれない。この意味で共感が関係の端緒となる百合らしい恋愛とは反対向きの、むしろ反共感とも呼べるような関係にある。

結局のところ相互に理解できないのではあるが、それと同時に理解したい、理解してもらいたいと考える。それがデートによって実行される。デートによって片側の見ている世界を、もう片側が覗くのである。

その試みはうまくいくこともあれば、当然うまくいかないこともある。そのたびに仲違いをしながらも、それでも相手の見ている世界を知ろうとすること、知ってもらおうとすることをやめない。

このために、NLらしい恋愛では相手の知らない世界に連れて行って、その楽しみ方を教えるという場面がよく出てくる。理解しよう、理解してもらおうと努力するのである。

一方で、百合らしい恋愛では、デートで知らない世界を覗くということはあまりない。あったとしても、知らない世界での楽しみ方を既に「知っている」。

なぜかというと、彼女らの関係は共感によって結ばれているからである。共感できないことはすなわち関係の終わりを意味する。知らない世界であっても、楽しみ方さえわかっていれば共感はできる。だから楽しみ方だけは既に知っているのである。

こういうことはデートで最も顕著に表れるのであるが、デートだけでなく日常の中で起こることもある。

BLはNLらしいのか、百合らしいのか

百合を語る上で、それと双璧となる巨大ジャンル、BLを語らないわけにはいかないだろう。BLとはBoys Love、男性同士の恋愛関係を描いた作品ジャンルである。

とはいっても、BLおよびその周辺領域は、BLとブロマンスの違いに熱心である人がいるなど、とても複雑でセンシティブな領域である。そのため、生半可な知識で触るべきではないとも考えられる。

しかしBLだろうとブロマンスだろうと、その物語の重要な部分は人間関係である。人間関係が重要部分だというのはBLなどにかかわらずほとんどの分野でそうなのだが。

そこで思い出してほしい。最初の方で、「百合らしい」や「NLらしい」という分類は恋愛に限らず人間関係全般に当てはめることができるといったことを。

この分析は人間関係全般に当てはまるのだから、その関係がラブだろうと絆だろうと契りだろうと関係がないのである。これをもってBLやブロマンス、その周辺領域を十把一絡げに語ることを許していただきたい。

さて、BLおよびその周辺領域を扱うジャンルでは、その巨大さ故に様々な関係性が描かれてきただろう。そのため、百合らしい関係も、NLらしい関係も両方あると考える方が妥当である。

しかし、私の所感では、BLでは圧倒的にNLらしい関係の方が多い。上司と部下、先輩と後輩のような立場が明確に示されることが多いように感じる。

また腐女子(BLを好む女性たち)の間では攻めと受けという概念が浸透しており、その役割は固定のものとして、逆カプ(ある関係に対して受けと攻めの役割が逆転しているもの)は強く嫌われる傾向にある。

さらにBLなどではオメガバースという世界観が扱われることが多いが(もちろん百合でも扱われることがある)、これはα、β、Ωという完璧な序列と役割によって構成されている世界である。

このようにBLおよびその周辺では、役割や序列を強調することが多く、よってそこに関係の端緒があることが多いのである。

百合らしい恋愛、NLらしい恋愛という呼び方は適切か?

BLおよびその周辺がNLらしい関係が多いという話を、前節でした。しかし私は、BLがNLらしいのではなく、NLがBLらしいのではないかと考えている。

BLは圧倒的に「役割」に端緒を持つ関係性が多く、NLよりこちらを源流とするほうが正しいのではと考えることができる。また、こうすることによって百合らしい関係、BLらしい関係というきれいな対称性が描ける。

しかしこれは枝葉末節であり、こだわるべき場所ではない。そもそも男女に結び付けることが正しいかという問題がある。

もう一度最初に戻って考えてみよう。恋愛関係には「共感」「仲間意識」「相互扶助」が端緒となるものと、「役割」「序列」「使命」を端緒とするものがあり、それらを百合らしいとかNLらしいとか名付けたのであった。

つまり本質的には、人間関係には共感などを端緒とする関係と役割などを端緒とする関係があると言っているに過ぎない。百合らしいとかNLらしいとかBLらしいとかは、それにたまたま付帯した名前に過ぎない。

以上より本質的には、性別というファクターは完全に切り離して語ることができる。

しかしそれでも、前者を百合らしいという名前で名付け、後者をBLらしい、NLらしいという名前で名付けることには一定の説得力がある。それはなぜだろうか?

それは、歴史的経緯によって、女性同士は共感によって関係を結ぶことが多く、男性同士や男女間では役割によって関係を結ぶことが多かったからであろう。(もちろんこれは適当な予測で、きちんと論文を引くなり研究するなりしないといけない。だがめんどくさいので今回はこの辺で失礼させていただきたい。)

補足

今回は二つの関係の端緒を完全に分けて語った。しかしある関係に対して両方が端緒となっている場合もあるだろう。また、初めの端緒は役割であっても、のちでは共感で結ばれるとか、その逆の場合などもあるだろう。

一方腐れ縁などの関係は、この関係の端緒の概念を適切に当てはめるのが難しいかもしれない。なので、この理論が完璧であるとはいえない。

しかしそれでも、大半の人間関係はこの2つに大別可能であろうということには違いないと考えている。

まとめと今後

恋愛関係を含め人間関係には、「共感」「仲間意識」「相互扶助」を端緒とする関係と、「役割」「序列」「使命」を端緒とする関係がある。それらは性別から切り離して考えることができるが、歴史的経緯で前者が女性同士の間で、後者が男性同士の間で用いられることが多かった。

この違いによって、関係の続き方が異なったり、デートなどの質が異なったりしてくる。これら2つが混ざっている関係性ももちろん考えられるし、完璧に当てはまらない少数の例外もあるだろう。それでも大半の関係は、この2つに大別できる。

この記事では百合らしい関係、BLらしい関係について、例示を出さなかった。例示するために作品を引用すると、かならずネタバレを含むためである。しかし例示がないために、かなり理解しがたかったと思う。なので今後、リコリコとぼざろを例に、この違いを指摘する記事を書こうと考えている。

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