SNSをやめろ

2023年4月8日

SNSは人生における多大な時間を浪費させ、頭脳を疲弊させる。それによって出る損失は膨大なものであると予想される。

この記事ではいかにSNSが人々の時間を奪う悪魔の所業を成しているかをつまびらかにする。またそれによって人々(自分)がSNSとどう向き合うべきであるかを考えるきっかけになればと思っている。

SNSが人々の時間を奪う3つの方法

SNSは主に3つの方法によって人々の時間を奪っている。一つ目が「複数機能のシームレス化」、二つ目が「投稿と評価の不可分」、三つ目が「献身を引き出す」である。

二つ目は一つ目と、三つ目は二つ目と密接に関わっており、ある意味完全な形で閉じている。それによってSNSは完璧なる時間搾取機関と化たのだ。

この3つが詳しくはどのようなものであり、どのように作用し人々の時間を奪うのかを、以降で一つずつ明らかにしていく。

複数機能のシームレス化

SNSではさまざまな機能がシームレスにつながっている。わかりやすいところで言うと、友人との連絡や雑談と、世間のニュースが、シームレスにタイムラインという同じ土俵上に現れたりする。

他にも話題の検索がすぐ手の届く場所にあったり、リプライなどから世間の反応を覗いたりすることができる。

それだけでなく、評価する/評価されるという機能もシームレス化されている。流れてきた投稿に対して、私たちはいいねや共有で評価する。また自分が行った投稿に対して評価されるのである。

この評価する、される機能のシームレス化はとても大きな影響があるのだが、それは後の節で語ることとして、ここでは複数の機能がシームレス化されていることそのものに対する問題点を述べる。

複数の機能がシームレスにつながっていることは、便利である一方で、何が目的かを見失いがちという問題点を持つ。

たとえばはさみであれば、紙などを切るという機能しか持たない。そのため、はさみを持った瞬間に紙を切るという目的が脳内に立ち上がり、直ちに遂行される。

一方で多くの機能がシームレスにつながっているSNSでは、特定の何かという目的には向きにくくなる。そして目的が定まらないため、その目的の完遂も起こらない。

たとえば、今日あったことをちょっとつぶやきたくなりSNSを開く。しかし開いたところでなにかニュースを見つけ、それを共有して評価を与えながら、プラスで自分の意見を書く。それに対するいいねを受け取る。ひとしきりそれが終わると、今度はトレンドを覗き、地獄の様子を観察する。さて、最初の目的は何だったのだろうか?

このように、目的を見失い、いつまでもSNSを続けてしまうということがよく起こる。そして最終的にはSNSを触っていることが目的だという錯覚に陥るのである。

多機能がシームレスにつながっているというのは便利ではあるが、目的を見失いがちであり、そのためそれを意味もなく使うのが常態的になってしまう危険性を持つ。

投稿と評価の不可分

前の章で評価する/されるという機能がシームレス化されているという話をした。しかし実際のところはシームレス化などという生やさしいものではなく、不可分のものとして成立している。

我々は、流れてくるすべての投稿に対して、いいねをつける権利を有する。また、投稿するすべてのものに対して、いいねをつける、またはつけないことを強制できない。

このようにして、SNSに投稿した瞬間、すべてのものは同じ評価のるつぼに放り込まれる。我々にその拒否権は与えられていないのである。

人は本来評価にさらすものとそうでないものを選べるはずである。しかしSNSではすべてがいいね、共有、場合によってはリプライによって評価される。そして同様に評価する権利も持つ。

否が応でも評価される場にいると、人は自然と評価をされるように立ち回ろうとする。テストが行われそのたびに成績がつく学校では、多くの人がなんとかいい成績を取ろうともがくのである。

人々はSNSで評価を得るために周囲のトレンドを見たり、ウケるように文章を工夫したりといったことを始める。そのために無駄な時間が浪費される。

またこれは通知によってより一層強化される。どの程度評価されているかが、リアルタイムで表示されるのだから、評価から逃れられなくなるのである。

この投稿と評価が不可分であることによって、SNSは強力な搾取環境を形成している。それを次の節で説明する。

献身を引き出す

SNSは投稿と評価を不可分としている。しかしそもそも投稿をする人も評価をする人も存在しなければ、それはなんら意味を持たない。

SNSが意味を持つのは、投稿する人と評価する人が献身的にSNSにとどまり労力を支出しているからである。その献身を引き出し搾取する過程を、この節で説明する。

投稿者の献身を引き出す

投稿を投稿する人は、自分の頭と手を使い、面白い投稿物を作る。時に自分の人生を切り売りする。それは明らかに労力を支出することであり、プロであれば対価を受け取るべきものである。

しかし投稿する人々は、なんら金銭的な対価を要求しない。献身的に、SNSに労力を差し出す。なぜだろうか?

人々は完全に何も見返りがない場合に労力を支出することはほとんどない。あったとしても長期間にわたってそれを続けることは不可能である。よって、なにか報酬を受け取っていると考えるのが普通である。

その報酬が、評価である。評価される喜びを報酬として受け取ることで、人々は投稿にかかる労力を支出するのである。

しかし現実世界で評価によって搾取される構造を見ることは、しばしばあるとはいえ多くはない。SNSではそれに比べて異常に広くこの搾取構造が見られる。

これはSNSが投稿と評価を不可分にしているため起こる。

本来人々は評価に出すものとそうでないものを選べるため、多くの人が評価されることに慣れていない。評価されることになれていないと、思ったほどいい評価がもらえなかったときに落ち込んだり、それを避けるために評価される土俵から降りる道を選んだりする。これによって現実世界では評価によって搾取が起こることはSNSに比較すると少なくなっている。

しかしSNSではすべての投稿が評価と不可分である。嫌が応でも、評価されることに慣れざるを得ない。また、普段の投稿なんかは評価されないことが普通であるため、思ったほどいい評価が付かない時の落ち込みが徐々に鈍っていく。結果として評価されたときのうれしさのみが積み上がることとなり、これが報酬として作用することになる。

このようにして評価を報酬に仕立てたSNSは、投稿者の献身を引き出し、搾取しているのである。

評価する人の献身を引き出す

しかし投稿する人だけではSNSは成立しない。むしろ投稿する人を支えているのも評価する人であり、評価する人というのはSNSを成立させる上で重要なものである。

この評価にももちろんコストがかかる。投稿されたものを読み、理解し、いいと思ったものに対してその意思を示す。これを何千という投稿物に対して行う。それには当然労力が支出される。

批評家やレビュアー、コンテストの審査員などの一部が仕事として成立しているように、評価をする人というのも、当然報酬を受け取るべきである。しかし、SNSでは多くの人が献身的に、評価する労力を支払っている。

ここに金銭の受け取りはないのだが、前と同じ議論により、なにか報酬を受け取っていると考えるのが妥当である。

人々が評価する労力の代わりに受け取っている報酬が、投稿者による投稿である。評価する人は投稿者の投稿をコンテンツあるいは有益な情報として消費する。そのときの対価として、評価する労力を支払う。

評価システムのシームレス化により、評価の意思を示すコストが格段に下がっている。これは明らかに投稿者が投稿を作成するのに費やした労力よりも少ないため、人々は全く損をした気分にならずに、投稿と評価の交換を行う。

これによって、評価者も献身的に評価という労力を支払うようになるのである。


以上によって投稿者と評価する人が相互に献身的な働きをし、SNSはそこからコンテンツを自動的に吸い上げることができる。またその相互の献身的な働きによって多くの人々が献身のループに巻き込まれ、時間を浪費することになるのである。

まとめ

このようにSNSは非常に高度に完成されたシステムによって、人々から時間を奪っている。その恐ろしさを感じながら、それでもSNSから離れられない日々なのである。

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