バックヤード

言葉は呪い。
気にしていないつもりでも、ゆっくりと内側から蝕んでいく。
呪いに弱いのなら、すぐに戻ることをおすすめする。

TruthSocialというSNSにすこしだけ居たときの話

8月12日から8月17日までの6日間、私はTruthSocialというSNSにいた。ここはもともとドナルド・トランプが作った右翼SNSであるのだが、連日続くTwitterの不可解なアップグレードや障害の多発などの影響を受け、コアなツイッタラーが移住先として選び住み着いていた。私もそのコミュニティに参入した。

そのコミュニティは、なるほどTwitterから移住した人、その中でもThredsやMiskeyになじめなかったものたちがたどり着く場所なだけあって、なかなか濃い人たちが集まっていた。そしてその人たちは心のままに下ネタや、たまに教養のあるネタをつぶやいていた。

このコミュニティが誕生したのは7月2日ごろである。そしてその初期から、自分の友人のひとりの大佐(トップページに彼の個人ブログへのリンクを張ってある)が参入し、中毒を起こしていた。その様をアカウントを作らないまま見続けて、1ヶ月が経過した。

このころ、ちょうど関わっていたあるプロジェクトが終わり、少々暇になった。そして誕生日が間近に迫っていた。参入するなら今しかない、そう悪魔がささやきかけた。

1つの区切りを迎える前だ。そして区切りを迎えたらさっさと縁を切ってやろう。少しだけ、少しの期間だけ、今しかできない体験をしようと思った。

そこの人たちは、毎日バカみたいなことを言ってはいるがやさしかった。ほとんどすべてのつぶやき(このコミュニティではTruthと呼ぶらしい)にいいねをしてくれる人もいた。たくさん生意気な口を利いたが、それでも自分をブロックしてくるような人はいなかった(と認識している)。こんなにさらけ出したことを言って受け入れられる場所は、そんなに見つけられないと思う。

しかしそれ故、自分と同じように生意気を言う人もたくさん居た。そして自分も生意気を言うことをはばからなくなった。

生意気を言う人でも受け入れられるというのはコミュニティの多様性だし、それぞれが我慢するのではなくそれぞれが好きなことを言えるというのももちろん良いことだ。しかし他人の生意気を受け続け、自分も生意気を発信し続けることになると、なにかが壊れていくようだった。

早くこんな場所を抜けよう、そう思った。しかしアカウントを消すのは悪だという風潮が強くあり、引くに引けない状況だった。できるだけ自分の手を汚さずに楽に逝ける方法、BANを狙った。

TruthSocialというのは、実は規約でポルノの類いが禁止されている。そんな場所で日本人コミュニティが下ネタをたくさんつぶやいているわけだが、これはアメリカのSNSであるために検閲が行き届いていないだけだ。例えば言語に左右されない画像などの類いは、きちんと検閲が入る。

BANを狙うため、エロ絵を描いた。客観的に今文字に起こしてこの異常さに気付いているが、当時は真面目だった。いや、真面目ではないが、猛烈な何かが私の体を引っ張っていた。そして満を持して誕生日の夜、エロ絵を投下した。

画像は削除された。しかしアカウントは残った。私は死に損なった。

画像はすぐにフォロワーによってリンクが回収され、それが再び貼られ、拡散されていた。6、7人が私の絵を褒めてくれた。それに伴って死に損ない宣言と同時に、誕生日であることを明かした。8人くらいが誕生日を祝ってくれた。こんなに多くの人に誕生日を祝われたことはなかった。とてもうれしかった。

しかし一度BANを狙い腹を括ったので、その後はひたすら垢BANのみを狙い、エロ絵の投稿と怪文書(文字媒体のエロ)の投稿に徹すると心に決めた。そして1日後に怪文書を上げた。

怪文書の投稿はイラストに比べて反響が少なかった。怪文書の先駆者であったすど先生も、あまりモチベーションが上がらない様子だったのはこういう理由かと納得した。そしてその後、何の気もない適当な生意気発言をすると、それが伸びた。

心がFAKEに染まった。真実の創作など誰も目にしないのだ。破壊的なこと、破滅的なこと言い続けるようになった。自分のすべてが、このとき狂っていた。

脳がぼんやりとしているが、それでも生意気な発言は止まらない。この感覚は以前にも一度なったことがあった。『さよならを教えて』というゲームをやったときだった。

そのときの惨めな思いがわき上がり、それをそのまま他人に投影した。TruthSocialのすべてが敵になった。自分の弱さに気付きながら、それを他人の弱さに転嫁した。

要するにそれは強いストレスだ。さよならを教えてというゲームは鬱ゲーであり、心身に大きな負担をもたらす。それは日常のすぐ横にある、不条理で、しかし足を踏み外せばすぐにでも入り込んでしまいそうな世界を見せつける。常識という地盤が途端に軟弱に感じられる。それが強いストレスとなるのだ。

TruthSocialでもまた、自分は自分の常識を大きく打ち砕かれるその場の前に飲み込まれ、安寧を自らの手で壊していた。そのストレスが、TruthSocial全体への敵対的な行動へとつながり、負のループを形成していた。

幸い自分は一度『さよならを教えて』によって、ストレスによりすべてが壊れる直前、すべてにヒビが入る瞬間を一度経験していた。だからこれは非常にまずい状況だという自覚があった。良いか悪いかストレスによる攻撃性というのは思い切りを良くする。アカウント削除は悪、そんな風潮クソ食らえとアカウント削除に走った。逃げ出すように。耳を塞いで。

すべてが終わり、アカウントが消えた瞬間、プツンと目の前のブラウン管テレビが消えたときのような感覚がした。視野がふわっと広がり、自分が生きているこの現実世界を強く意識した。帰ってくることができた。

私は歯を磨き、まだ少しだけ夢見心地な脳で原神を始めた。こころには少し秋風が吹いていた。

培養肉は食べたくない

私は培養肉だけはどうしても食べたくない。培養肉しか肉を食べられなくなる世界になったら、私は大豆ミートだけで過ごすだろう。

なぜ培養肉がそれほど嫌なのか、その理由を以下で示そう。これできっとあなたも培養肉を食べたくなくなるはずだ。

0.なぜ培養肉が広まっているのか

議論を進める前に、なぜ培養肉の研究が進んでいるのかについて軽く触れておくのが重要だろう。

昨今は地球温暖化などさまざまな問題がある。特に牛は、そのゲップからメタンガスを排出するために、環境に対する負荷が大きいとされる。

そのうえ、食べられるほどに成長するまで時間がかかるという問題もあり、それもまた環境の負荷になっているとされている。

そこで登場するのが培養肉である。培養肉ならばゲップはしないし、成長まで待たなくてよい。そのため環境に優しいとされている。

しかし技術的な課題もある。安定して細胞が生育するプラントをどう構築するかという問題だ。これに対して日夜研究が続いているのが現状である。

1.がん細胞を生体内で培養する方法

培養するためのプラントを、なるべく安価で安定して供給することが第一に重要なことである。そこで、次のようなシステムはどうであろうと考えてみる。

成長した牛の体内にがん細胞を埋め込み、それを成長させて、適宜採取するという方法だ。

がん細胞ならば成長スピードは速く、また一頭の牛から多くの肉を取ることを期待できるだろう。さらに牛の体内は細胞の増殖に適した環境が自動的に整備されるので、理想的なプラントである。

さらにがん細胞というのは牛にとっては異常もしくは不要なものであるので、それをそぎ落とすことは牛にとってメリットこそあれデメリットではない。つまり牛の健康を害さない。

といっても、この方法は悪趣味だと思った人が多いだろう。そこには倫理的な問題と、純粋に生物としての嫌悪感があると思う。

まず第一に倫理的な問題。切除する方は牛にデメリットがないとはいえ、そもそもそのがん細胞を埋め込んだのは人間だ。あえて病気となるようなことをするのは、重大な倫理違反だろう。そして牛の体を切って、また閉じるという行為を繰り返すのも、倫理的に問題があるのではと眉をひそめる人が多いのではないか。

次に生物的な嫌悪感である。がん細胞を食べるということに対して嫌悪感を抱く人は多いだろう。がん細胞というのはすなわち生物にとって奇形のようなものであるのだから、それを好んで食べるということにはならない。科学的にはただのタンパク質に還元されるのだが、それでもなにかよくないことが起こるのではないかという嫌悪感があると思う。

以上の二点をもって、この手法はまず受け入れられないだろう。

2.がん細胞を人工環境で培養する

ではがん細胞を人工の環境で生育するとどうだろう。一部のがん細胞は細胞増殖に対して抑制が効かなくなっているので、培養肉の用途に向いているだろう。

また培養を牛の体内ではなく外でやることによって、牛を苦しめるという倫理的な問題は解決した。

しかしこれではまだ、生物的な嫌悪感のほうを消し切れていない。がん細胞は人工的に培養しようががん細胞であるのだから、それを食べたいと思う人は少ないだろう。

3.がん細胞でない細胞を人工環境で培養する

がん細胞でない細胞を培養することによって、生物的な嫌悪感の問題もついに解決する。

しかし、がん細胞でない細胞を培養するということが可能なのだろうか?

これに関してはもちろん技術的な問題があるが、それ以前に観念的な問題が横たわっている。何をもって「がん細胞でない」とするか、だ。

そもそもがん細胞かどうかは、それを宿している生物主体に対して異常かどうかというただ1点で決まる。細胞単体にその区別はない。

がん細胞だろうが、細胞単体で見れば、代謝をし増殖すれば、それは「正常な」細胞である。それが生物主体の中に組み込まれたとき、期待された役割を演じられないと、「異常な」細胞であると見なされる。

ここで、培養肉の培養をするときのことを考えてほしい。その環境では、生物主体、すなわち一頭の牛というものが、存在しない。

つまり、培養された細胞が、がん細胞であるのかそうでないのかを区別することができない。

こうもいうことができるかもしれない。生物主体がないところで増殖している細胞というのは既に「異常」だと。すなわちすべての培養肉ががん細胞だと。

4.まとめ

以上より、培養肉というのはがん細胞と区別できないということ、がん細胞に性質が近いものであるということがわかってもらえただろう。

もちろんこれを踏まえた上で、がん細胞を食べる嫌悪感よりも肉を環境にやさしく食べたいという欲求が勝るのならば、勝手にすればいい。

ただ、私は以上のような考えから、培養肉は食べたくない。培養肉しか肉がなくなったのなら、大豆のみで一生を過ごすつもりだ。

2023.4.4

呪いの言葉

言葉っていうのは、基本的に呪いなんです。人間はいつも他人の言葉に影響されて、決してその影響から逃げられない。

他人だけじゃない、自分の言葉も呪いになります。自分を縛り付けて、動けなくする。

言葉は全体的にそういう性質を持っているんですけど、そういった言葉の中でも特に拘束力が強い呪いの言葉があります。

それが、「キモい」や「キショい」です。

「○○ってキモいよね」という言葉を一度聞いたが最後、その言葉がずっと心に残り続けます。自分がその○○をしようとしたときに、必ず蘇ってきて、動いていた体をピタリと止めてしまう。そんな呪いの力を持っています。

他人から言われなくても、自分で「○○がキモい」と思ったこと、言ったこと、それは取り返しもつかずあなたの中に残り続けます。むしろ自分で言ったもののほうがより強い呪縛となります。

しかもやっかいなことに、「キモい」には根拠がありません。根拠がある説教などと違い、何も考えず、気軽にキモいと言い放つことが可能なのです。

つまりこういうこともできます。特に根拠がなく相手にやめてほしいことがあるとき、キモいと言ってしまうと。するとそれは相手に残り続け、一生の呪縛になります。当然自分にも帰ってくる分はあるけどね。

この強力な呪い、しかし簡単な呪い、その呪いをあなたは知ってしまいましたね。これであなたは、いつでも悪用できるし、使わないと心に決めることもできます。

でも、この呪いの効力を知った上でもなお「キモい」を使う人は、キモいと思いますけどね。

2023.3.31

なにもないよ

なにもないよ。まだここにはなにもない。

まだ何もなくてよかったね。

2023.3.27